ラストシーン

 確かにその日は、彼の様子がおかしかった。
 いつもであれば、歩いているときは勿論、車の運転中だろうと、彼から積極的に手を繋いできた。
「なんか、手を繋いだり、腕を組んだりするのって好きなんだ。ほら、何となく安らぐでしょ、ね?」
 彼は初めて私の手を取ったとき、照れたような笑顔を口許に浮かべて、そ、言ったB
 だが、今日はそのような素振りを全く見せない。それだけではない、私と眼が合うと、彼は静かに眼を伏せ、そうかと思うと、今度は私の横顔を盗み見る。しかし、私が彼の視線に気付いて彼を見つめ返すと、気まずそうに顔を逸らした。
 初めのうち、私はそれらの妙な行動について、たいして気に留めていなかった。いや、気付いていなかっただけかもしれない。
 その日、私は「いつも通り」だった。いつも通り髪を念入りにブローし、いつも通り約束の十分前に待ち合わせ場所に着き、いつも通り浮かれ、そして何より、いつも通り彼が好きだった。彼も同じだと思っていた。
 国道沿いのファミリーレストランで、少し遅めの夕食を取っているとき、私は彼の顔をじっと見つめていた。彼は私の視線を意識するかのように、箸を止めて首を傾げた。
「何? ご飯粒でも付いている?」
 私は少しだけはにかみ、「暫く会えないから、顔を忘れないようにと思って」
と、囁くように言った。この台詞に彼は喜んでくれるかと思ったが、彼の反応は私の予想とは全く違うものであった。
「周りに人がいるんだから……。僕がシャイって事知っているでしょうに……」
 僅かに俯き、彼は口籠もった。
 ごめん、と私は小さく呟いた。「あとで言って欲しかった?」
「……まあね」
 彼は短く言い放つと、無造作に煮魚を一切れ、口の中に押し込んだ。
「でも、暫く会えないのは、本当だよ」
と、私は静かに言って、彼の反応を窺った。彼は私が思ったよりも、さっぱりとした口調で問い返した。
「どうして?」
「もう少しで試験だから」
 そっか……と、彼は頷いてから、水を一口だけ飲んだ。
「大学入学後、初試験だろう?」
「そう。だからちょっとは頑張らないと」
「何だかんだ言っても、学生って大変だな。試験中は」
「それ以外の時は、かなり気楽だけどね」
 彼は椅子にもたれかかり、ふうっと長く息を吐いた。
「ちょっと羨ましいよ。サラリーマンからしてみれば」
「学生時代に戻りたくなった?」
 私の言葉に、彼は少し苦笑してみせた。「うん、かなりね」

 レストランを出てから、暫く車で国道を走っていた。
 会話の代わりに、ミドルテンポのBGMが私達を包んでいた。二人が付き合うきっかけとなった、イギリスのミュージシャンの曲で、このアルバムは、私が最も気に入っているものだった。

 私はあなたの心の奥底にある痛みを 和らげる事が出来る
 偽りを取り除き もとのあなたに戻す事も出来る
 どんなときにも あなたを満たす事が出来る
 遠くからあなたを見ている事も出来る

(私も出来るのだろうか、この人の痛みを和らげ、満たす事が)
 ふと、私は彼の横顔に眼を遣りながら、考えてみた。
 彼と私の付き合いは、どちらかが言い出したわけではない。歳の差は十も離れていたが、お互いに惹かれあい、自然と今のような関係になった。だからだろうか、私は時々不安に
なる。彼は私をちゃんと見てくれているのか、彼は本当に私を必要としてくれているのか。
 私は彼から、はっきりと「愛」を告白された事がない。嫌いじゃない――それが彼の精一杯の愛の告白だ。その代わり、彼は態度で私に対する愛を表現する。ちょっとした気配り、例えば、職場からでも「今日、何かあった?」と電話をくれたりする。「君の声が聞けたから、もうひと頑張りするよ」……そうだった。やはり、私は彼に必要とされている。
きっとそうだ。
「まだ九時半か……。時間、大丈夫だよね?」
「うん、平気。大丈夫」
 彼は、そうか、と呟くと、ウインカーを点滅させ、右折して車を脇道に入れた。
 いつもの定位置、人通りがない狭い道の、僅かな駐車スペースに車を停める。彼はエンジンを切ると、シートを倒して思い切り伸びをした。私もつられてシートを倒す。
「こっちおいで」
 彼はそっと腕を伸ばし、私の肩を抱く。私はゆっくり眼を閉じ、彼の唇を自分のそれで受け止めた。私は彼のキスが大好きだった。とても安らかな気持ちにさせてくれる。舌を絡ませながら、私は初めて彼とキスをしたときの事に想いを巡らせた。
 あれは彼と付き合ってから、一ヶ月ほど経ったとき――二度目のデートのときだった。
 その日は日帰りで、県内の海の方にドライブに行った。水族館でのアシカやシャチのショウを堪能し、新鮮な海の幸を味わい、帰りにちょっと寂れた観光名所に立ち寄った。私達は、そこの駐車場で、少しだけ休憩を取る事にした。丁度今のように、シートを倒して
横になっていた。
「もっとこっちに来て」
 私は無言のまま、彼に寄り添った。彼は暫く私の髪を優しく撫でていたが、突然手をとめ、私の眼を覗き込むように見つめた。そして、ゆっくりと顔を近づけてきたのだった。
 
 私があなたの初めての恋人じゃない事は知っている
 だけどあなたとキスをすると まるで運命と口付けしているような気がするの

 そのとき、私の好きな曲に、そのようなニュアンスの歌詞があることを思い出した。まさにその通りであった。あのとき、私は運命とキスを交わしている錯覚を起こした。
 そして今も……。
 互いの唇を離した後、彼は深い溜息をついた。
「なあ……」
 彼は私の耳許で囁いた。「実は、話があるんだ」
「話? どんな?」
 私は彼の髪を弄りながら訊いた。
 彼は少し言いづらそうに口籠もってから、「今後の二人の事について」
と、早口で言った。
「えっ……!?」
 私はとっさに頭をもたげ、彼を直視した。「婚約」「結婚」の単語が脳裏を過ぎり、鼓動が早まる。
「あのさ、僕達ってかなり歳が離れているじゃない?」
 動揺している事を彼に悟られぬよう、私は冷静を装う事を努めた。
「そうだね」
 辛うじて、声は上擦らすに済んだ。
「それで、あなたの場合、学校にイイ人とか、いないの?」
 私は彼の質問に、少しだけショックを受けた。
 彼は意地悪だ。私を焦らして楽しんでいるのだろうか。それとも、私が彼の見えないところで、浮気をしているとでも勘ぐっているのか。
「何でそんな事、訊くの?」
 私は拗ねた振りをしつつ、言葉を繋げた。「私はこう見えても一途なんです。そんな人、いるわけないでしょ、もう!」
 私はいつ彼を不安にさせたのだろう、いつそんな素振りを見せたのだろうと、考えるうちに、何となく切なくなってきた。こんな気持ちにさせる彼がほんの少しだけ憎くて、そ
して愛しくて、思わず涙ぐみそうになった。
「私が好きなのは、この人だけー」
 潤みかけた自分の瞳を誤魔化すように、私は彼の鼻を思い切りつまんでやった。痛い痛いと訴える彼。年上なのに、そんな彼が可愛いなあと思った。
「こらこら! やめんかい! 全く、もう……」
 彼は私の指を一本ずつ外しながら、徐々に真顔になっていった。そして彼は、私の人差し指を軽く握り、私の正面に向き直った。
「この一週間で、僕の方にちょっとした変化が起こったんだ」
 彼はいつになく、慎重に言葉を選んでいるような、話し振りだった。
「変化って何よ?」
 彼は私の人差し指を弄びながら、「うーん……」と唸り、僅かに俯く。
 私はじれったくなって、「何?」と再び問いただした。彼はしばし黙ったままだったが、突然意を決したかのように、冷静に話し始めた。
「実は、去年付き合っていた人がいたんだけど、この前その人と再会してね」
 彼は一旦言葉に詰まりつつも、言葉を続ける。「結婚しないかって、言われた」
 私は反射的に彼の手を振り払い、勢いよく上体を起こした。
「断るんでしょ?」
 さも当然だろうというように、私は言った。が、彼の答は私の考えとは、全く正反対のものであった。
「断ってどうするの」
 彼の声が私の鼓膜に冷たく響く。
「……じ、じゃあ、あなた、結婚するの?」
 彼は無表情のまま、大きくゆっくりと頷いた。
 私は愕然とした。
「私は? 私はどうすればいいわけ!?」
 私の剣幕に、彼は逃げるように私から眼を逸らした。そして、彼は口を小さく開いて、何かを言おうとしたが、適当な言葉が見つからなかったのか、結局静かに溜息をついただけだった。
「――別れたい、そうなの?」
 私は彼に迫った。
 彼は何も言わない。ただ、ばつが悪そうに俯いているだけだった。そんな彼の態度に、私は酷く虚しくなった。
「何で、私と付き合ったの?」
 どれくらいの時間が空いてからだろう。彼は漸く私と眼を合わせてくれた。
「何でって……決まってるでしょ。嫌いじゃないし」
 泣き出しそうになるのを必死で堪え、私は無理に微笑を作った。
「嫌いじゃ……ない?」
ああ、と彼は頷いた。
「それなら何で……なんで他の女と結婚しようなんて、考えるの!?」
 私は彼を責めるように、強い口調で問い詰めた。
 負けじと彼も、きっぱり言い放った。
「彼女の事、嫌いじゃないから」
 ――目の前が真っ暗になった。

 

 私は彼が好きだった。同じように彼も私を好きだった。お互いがお互いを必要とし、そのようにバランスが保たれていた。歳の差は大きいが、それを感じた事は一切なかった。子供扱いされた事もなかった。先のことはまだ判らないが、二人はいつまでも一緒にいられるのではないか。私はそう思っていた。
 しかし――それは私の独り善がりだったのだろう。
 今この瞬間、私の周りだけが凍りつき、私独りが、時間の流れから取り残されてしまったような気がした。
「それで、ここ暫く会えないっていう事だから、その間によく考えておいて欲しいんだ」
 考える? 何を? 私に何を求めているの?
 彼の声が遠くなっていった。
 耳鳴りと脈の打つ音だけが、いやに大きく響いている。
「このままじゃいけないと思う、君のために」
「君は恋愛ビギナーだもの。若い男と付き合わないと勿体無い」
「僕、あと二年くらいしたら、海外に出張になるかもしれないし」
「でも君はまだ学生で」
「君を嫌いになったとか、そういうのじゃなくて」
「ただ、僕もうすぐ三十路だから」
 私の耳には、既に彼の声が届かなくなっていた。
 私の心は深い闇にのまれ、暴走しようとしていた。
 そう。彼は「結婚願望」に取り憑かれているだけなのだ。だから「前の彼女」が持ち出した結婚話に飛びついただけ。彼の本心が求めているのは、この私。早くその事に気付かせてあげなければ。
 ふと、あるシーンが私の脳裏に浮かんだ。
 一言も残さず、車を飛び出す彼女。急いで彼女を追いかける彼。手首を掴まれ、振りほどこうとする彼女。だが彼は決して手を離さない。そして、彼は彼女を引き寄せ、抱きしめる――。
 それを演じてみせようと、私は思った。荒っぽいけれど、そうでもしなければ、彼は「結婚願望」から逃げられなくなってしまう。彼を救わなければ。今ならまだ間に合う筈。早く、私が必要だという「真実」に気付かせないと、彼は何処かにいってしまう。
 私は彼に気付かれぬよう、静かにロックを外した。彼はまだ何かを喋り続けている。私には彼が何を言っているのか解らない。いや、彼は私に向かって話しているわけではない、自分に言い聞かせているだけなのだ。「結婚願望」が彼を狂わせたのだ。
 私はバッグを握り締め、ドアに手をかけた。
 大丈夫、私達はこれで終わりにはならない。絶対に彼は私を追いかけてくる筈。
 私は大きく深呼吸をし、それから思いきり大きくドアを開け、車の外に出た。
 後ろは見ない。
 きっと彼は驚いているだろう。
 私はありったけの力を込めて、後ろ手でドアを閉めた。背後でバタン、と大きな音が響いたが、気にしなかった。
 私はそのまま前を見据えて歩き出した。そこの角までは早足で。それから次の角までは、少しだけ歩を緩めて。
 そこで私は立ち止まった。後ろを振り返るが、ボンヤリとした長い影が、私の足許から三本に別れて伸びているだけで、他に誰もいない。
 暫く私は、その場に立ち尽くしていたが、一向に彼は現れなかった。
 私は溜息と共に「馬鹿みたい」と呟き、ゆっくりと、そしてしっかりした足取りで歩き出した。彼の車の中で、最後に聴いた曲を小さく口ずさみながら。

「マイ・ライフ・インコンプリート・ウィズアウト・ユー」

 


※小説中使用曲
☆Get in touch with yourself
☆Incomplete without you
『Get in touch with yourself / Swing Out Sister』 より
☆Angel Eyes
『the bridge / Ace Of Base』 より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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